【校長講話】第二学期始業式
長い夏休みが明けました。が、この異常な暑さで、年長者にはバテ気味の人も多いのではないかと思います。若い皆さんは大丈夫だと思っているかもしれませんが、油断は禁物です。まだしばらくは酷暑が続くようですから、体調管理には十分気を付けてください。それにしても、最近の地球環境変化の異常さは、皆さんが担うことになる将来にとって実に憂慮すべき事態です。
さて、今日は「学校」と「自由」について話をします。先日、学校という漢字や英語のschoolの語源について見聞きすることがあり、確認のつもりで自分でも調べてみました。
schoolという英語はギリシア語の δχολη(スコレー)が語源で、その意味は「暇」だそうです。また、ラテン語で学校のことはludus(ルードゥス)と言うそうで、図書館の日羅辞典によると「遊戯」、「娯楽」、「学校」などの意味があり、その動詞ludo(ルード)には「遊ぶ」の意味とありました。一方で、学校の学という漢字の旧字体「學」を図書館のある漢和辞典で調べると、「道理のわからない子どもが、ならってさとること」とあり、学校の「校」の字にはもともと罪人の手足を締め付けて拘束する道具、手かせ、足かせの「かせ」を意味していたとありました。
古代ギリシアでは労働はすべて奴隷が行い、富裕層の市民は労働から解放されていましたから、市民は特権的な暇を活用して、様々なことを考え議論していたのでしょう。「遊び」も、夢中になって楽しく打ち込む中から自由な行動や発想が生まれ、それが学問や文化の創造へとつながっていくことになります。一方の、漢字の語源から感じられる自由が制約された場所というイメージも、人類がこれまで築き上げてきた知識や文化を吸収し、将来の学問や文化の担い手となるための基礎を身につける場としてみると重要です。なぜなら、基礎なくして応用し創造することはできないからです。つまり、学校にはギリシア語やラテン語の意味合いと、漢字の語源からくる意味合いの両方の側面があるということになります。では、そんな学校で生活する皆さんがとるべき姿勢はどうあるべきかといえば、学校という一定程度自由が制約された環境ではあっても、ただおとなしくしているだけの受け身の姿勢ではいけません。主体的な行動や実践にどんどん挑んで、社会人として自由を正しく使いこなせるようにならなければいけない。そういうことだと思います。
来週は、いよいよ庄和高祭です。4年ぶりに入場制限なしでの開催です。この文化祭という場にも、当然制約はあります。でも、実は制約があるからこそ創意工夫のし甲斐もあるわけで、だから「遊び」のごとく夢中になって思い切り楽しめるという側面もあるのではないかと思います。さらに、皆さんからの要望を受けて、当日は日常の制約の一部が解除され、皆さんは当日その分の自由を手にするわけです。ぜひ手にした自由を正しく使えることを、見せつけてほしいと願っています。
そんな期待を込めて、福澤諭吉の「学問のすすめ」から、自由を論じた一節を明治大学の齋藤孝教授の現代語訳で紹介します。「学問のすすめ」といえば、冒頭の「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」があまりにも有名ですが、全体は17の編で構成されています。その初編で、福澤はさっそく「自由とはわがままのことではない」とくぎを刺します。
ただ自由とだけ言って「分限(義務)」を知らなければ、わがまま放題になってしまう。その分限とは、天の道理に基づいて人の情にさからわず、他人の害となることをしないで、自分個人の自由を獲得するということだ。自由とわがままの境目というのは、他人の害になることをするかしないかにある。
さらに、第8編では人間の心身の自由を論じるにあたり、「身体」、「知恵」、「欲」、「良心」、「意思」という5つの性質(力)に触れ、その5つの力を使う上での「分限」を強調しています。
ただ、この5つの力を使うにあたって、(中略) 分限を超えないようにすることが肝心だ。分限とは、自分もこの力を使い、他人もこの力を使いながら、お互いにその働きを妨害しないということである。このように、人間であることの分限を間違えずに世間を渡れば、他人にとがめられることもなく、天に罰せられることもない。これが人間の権理である。
*「利」ではなく「理」を使った「権理」とは、英語でいうrightのことで、持っているべきことにきちんとした理が通っていて、主張しても何ら恥じることないといった意味合いです。
いかがでしょう。
自由とわがままの境目というのは、他人の害になるかならないかにある。人間であることの分限を間違えずに世間を渡れ。
ぜひ参考にしてください。そして、有意義な2学期を送ってもらえるよう期待しています。